ワックス解剖標本収集の歴史

クレメンテシーニ

クレメンテシーニ

カリアリ人学が所蔵するワックス解剖標本は、カルロ フェリーチェCarlo Felice (1765 -1831) がビ卜リオ エマニュエル一世Vittorio Emanuele I (1759-1824) の弟王として、 サルデ二ャ島 Sardegna を支配していた時代に購入したものです(Scaraffa 1987)。カルロ フェリーチェはサルデ二ャ島では名君として名高い人ですが、その後赴任したチューリンでは1821年におきたリべラル運動を弾圧する など、 カルロ フェローチェCarlo Feroce (暴君) とあだ名されるような一面もあったようです。 そ れはさておき、 カルロ フェリーチェは若き解剖 学者フランチェスコ アントニオ ボイ Francesco Antonio Boi (1767-1865) のパ卜口ンとなり、イ タリア国内にあるいくつかの著名な解剖学教室で 学ぶこと、さらにフィレンツェでの長期滞在を許 しました。その上、フイレンツェ在住の蝋細工師 クレメンテ スシーニClemente Susini (1754- 1814)が作成したワックス解剖標本を購入する資 金の援助までおこないました。 フランチェスコ アン卜ニオ ボイは、 オルザイ Olzai というサルデニャ島の中央部に ある小さな村で農家の子として生まれました。彼はたいへん頭のよい子でしたので、当 時の習慣にならい、聖職者になるための勉強をすることになりました。しかし18歳の 時、彼は聖職者の道を捨て、サルデニャ島の首都カリアリCagliari に行き、医学を学 び、1795年医師免許を取得しました。彼の優れた才能はすぐに有名になり、1799年に は解剖学教室の初代主任教授として選任されました(Sorgia, 1986)。解剖学教室そのも のはすでに1764年に創設されていましたが、 教授のポス卜は他科の人に握られていた のです。ボイは学問的にも政治的に成功をおさめ、1818年にはArchiatra del regno di Sardegna、つまりサルデニャ王国の厚生大臣に相当する地位に就きました。 ボイの 没年ははっきりしておりませんでしたが、Ignazio Lai博士が1995年に資料を発見し、 これまで185O年とも186O年ともいわれてきた彼の死亡年が、1855年らしいということがわかりました。 ワックス標本は その後 博物館に展示されることになります。これには2人の貢献を 忘れるわけにはいきません。 ルイジ カス夕ルデイ Luigi Castaldi(1890-l945)教授とル イジ カターネオ Luigi Cattaneo(1925-1992)教授で、 いずれもカリアリ大学医学部解剖 学教室に主任教授として在籍した人たちです。 ルイジ カス夕ルデイは、フイレンツェ近郊にあるピス卜イアPistoiaに生まれ、 カリアリ大学解剖学教室の主任教授を1926年から1943年までつとめまし た。 忘れられた存在にすぎなかったワックス標本をみつけて調査 し、 はじめて人々にその存在を知らせました。 その成果はボ イに関する興味深いエッセイとともに、彼の死後出版さ れました(Castaldi 1947)。ルイジ カターネオは、パビ アのクラ カルピナノ Cura Carpignano に生まれ、 カリアリには1963年から1966年まで解剖学教室主任教 授として在籍し、 その後ボローニャ大学に転任し ました。 カ夕ーネオがカリアリに着任した時、 ワックス標本そのものはよい状態で保存されていましたが、 それらを入れる胡桃材製のガ ラス収納箱は第二次世界大戦の惨禍にあい破損していました。 カ夕ーネオは身銭をきっ てこれらを修復し、 ワックス標本をきれいにし、 他のありきたりの標本とは別格の扱い をしました。そして友人のブルーノ ザノビオ Bruno Zanobio (現在はミラノ大学医史学教 授)の協カを得てコレクションを整理し、イラス卜入りカ夕ログを出版したのです (Cattaneo, 197O)。 この初版に英語訳を追加し、さ らに写真を搬り直した第2版が、最近出版されました (Cattaneo and Riva,1993)。これは、ワックス標本についてはじめて英語 で書かれたカ夕ログです。英文での紹介は、その後、イ夕リア 解剖学会発行の学会誌に「カリアリ大学所蔵のワックス標本」 と題する論文でもおこなっています(Riva et al,1997)。 ここで再びボイにもどります。すでに述べましたように、 18O1年ボイはカルロフェリーチェの資金援助を得てサ バーティカルとしてイ夕リア本土に渡り、 解剖学の知 識を一層深めるべく研鑽を積みました。ボイはま ずパビアを訪れ、 そこで当時高名をはせていた 主任教授アン卜ニオ スカルパ Antonio Scarpa (1752-1831)に出会います。 そしてピサ、 きらに はフイレンツエを訪れます。 フイレンツエに大 学はありませんでしたが、 解剖学の研究を盛ん に行つていたアルチスペダーレ デイ サンタ マリア ノバ Arcispedale di Santa Maria Nova という学校がありました。この学校の指導者は パオロ マスカーニ Paolo Mascagni (1755-1816) といい、 偉大な解剖学者フエリーチエ フォン夕ナ Felice Fontana (1730-18O5)の親友です。フォン夕ナはフイレンツェにある有名なワックス博物館ラ スペコラLa Specolaの創設者で館長もし ていました。 フイレンツェに到着するとボイはただちにマスカーニの学校に通い、 こ こで多くの知識を吸収し、結局1805年までの4年間フィレンツェに滞在することになり ました。カリアリにワックス標本があるのは、 ボイがフイレンツェに長期滞在をきめ たおかげといえましよう。カルロ フェリーチェにせかされて、 ボイはクレメンテ スシ ーニからワックス標本を購入しました。 ピエトロ メローニ サッ夕 Pietro Meloni Satta (1892)によれば、 その標本は実際にボイがおこなった解剖をもとにして作られた ものだそうです。ワックス解剖標本の値段は 14800 リラといわれています(Cara,1872)。 当時、 スシーニがラ スペコラの主任蝋細工帥として受取っていた給料は年問1440リラ にすぎず、ずいぶんと高価な買い物をしたことになります。 スシーニのワックス標本は、カルロ フェリーチェによって創設 された古代史自然博物館 Museo di Antichità e Storia Naturale に保存されていましたが、1858年にカリアリ大学に移管され、 解剖学教授の管理下におかれることとなりました。 1963年、ルイジ カターネオは当時の学長ジュゼッペ ペレッテイ Giuseppe Peretti の許可をえてワックス標本を他の陳列品とは 別にして、 解剖学研究所の一室に展示することにしました。 この建物は現在ポーセル通りVia Porcell にあります。1991年、アレサンドロ リバ Alessandro Riva が博物館長になつ たのを機会に、当時の学長デュイリオ カズラ Duilio Casula の援助をえてワックス標本をアルゼナ ーレ広場市営博物館 Cittadella dei Musei di piazza Arsenale に移し、五角形ホールで展示しています。

Translation by Dr. Akihisa Segawa (1953-2003)

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